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ドキュメンタリー映画
『ユーリー・ノルシュテイン 《外套》をつくる』

才谷遼監督インタビュー

 

人生は捨てたものじゃない

 
 

 岡本喜八監督に弟子入り

 
最初は漫画家になろうと思ってたんだよね。でも、高校の時にたまたま岡本喜八監督の映画『肉弾』(1968年)を見て、これからは映画だって変わった。師匠はこの人しかいないなと決めて、日本大学芸術学部映画学科へ行った。

その当時は映画をやろうと思ったら日大の映画学科しかないのよね。でも映画学科ってしょうもないじゃない。二、三年もいると。日芸で映画やっているといったって、素人みたいなもんだから学生なんて。

同級生に横山博人っているんだけど、『卍』(1983年)とか『恋はいつもアマンドピンク』(1988年)をつくった監督。横山なんて、東映の大泉撮影所の伊藤俊也監督のところへ一升瓶下げて行って、現場に入っていた。
 
そんな姿を見ていて、大学三年の時、僕は岡本さんの所だって意を決して訪ねに行って、「弟子にしてください」って一番古いパターン。

岡本さんは「俺もオリンピックみたいな監督だしな。四年に一本」と最初は認めてくれなかったんけど、おかみさんが「ま、ここに来てれば食べるものもあるし」と助け船を出してくれた。 すると一週間もしないうちに岡本さんから速達が届いて、テレビのドキュメンタリーの仕事(『時効まであと26日! 実録三億円事件』、1975年)があるけど、そのシナリオと助監督をやるかと。「ありがとうございます」と、岡本家に泊まり込んでシナリオ書いて、それから即、現場につくようになった。ありがたいよね。
 
日芸の後輩で同じ九州出身の石井聰亙(現・岳龍)監督が訪ねてきたこともあった。 石井君は「 日活から『高校大パニック』(1976年)を商業映画としてリメイクしたいという話があるんですけど、先輩として意見聞かせてください」と。「いい話ならどんどんやればいいじゃん」と話をしたのを覚えている。
 
1982年に出版社のふーじょんぷろだくとを設立して、まんがアニメ専門誌「COMIC BOX」を創刊した。自分が責任者でないとやりたいことが出来ないので、編集長をやりつつ、映画のページもつくった。
 
二十代って本当に悲惨だった。でも大体、二十代って人間悲惨じゃない。で、三十代になっても、物事がうまくいかないんだよね。何で人生ってうまくいかないのかなって疑問を考えて気づいたのは、あっ、計画を立てるからうまくいなかいんだって。計画を立てるから、計画通りに物事はいかない。今となれば当たり前のことだけど。

とりあえず、目の前にあることを一個ずつ片付けていくことにして、計画を立てることをやめた。ちなみに、普段財布を持ち歩いてないんだけどさ、つまり、財布を持ち歩いてなければ財布を落とすことはない、という理屈と同じ。で、計画を立てることを止めたら、なんか物事がそれなりに回るようになった。
 
ピーター・ボクダノヴィッチ監督の映画『ラスト・ショー』(1971年)の一節「映画館は文化の灯火」という台詞が好き。
1998年には、ミニシアターや小劇場、レストランからなる夢の映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」を開館。「ラピュタアニメーションフェスティバル」を主催し、「アート・アニメーションの小さな学校」も開校。ミニシアター「ユジク阿佐ヶ谷」もさらに開館した。気がつけば、出版、映画、演劇、学校を手掛け、映画監督にも。

とりあえず今日できること、今日来た問題を単純に今日解決する。で、明日に延ばせるものは全部伸ばす。でもそんなことやってると、どこ行くか分からないってこと。全部行き当たりばったり。本当に。自分がやりたかった訳でも全然なくてさ。やりたかったのは映画だけなんだけどね。いつのまにか、こうなっていた。  
 
 
 

「お前なら聞けるよ」


ノルシュテインさんとは、かれこれ30年以上の付き合い。ロシアのアニメーションフェスティバルが毎年二月にあるので、モスクワには二年に一回は行っている。毎年行っている時期もあるので、ロシアには合計十五、六回は行っている。
 
ロシアではノルシュテインさんに会いに行く時もあるし、ノルシュテインさんと一緒にフェスティバルに行く時もある。そこにはアレクサンドル・ペトロフとかいろんな作家もいるし。ラピュタ阿佐ヶ谷では、ノルシュテインさんを招いてワークショップや映画祭も開いてきた。

ノルシュテインさんは何十年も日本に来ているので、始めのころは「『外套』どうですか」と聞いたり、出来た映像を1、2分持ってきたりしては上映していた。でもそのうちに『外套』についてはだれも聞かなくなった、というか聞けなくなってしまった。

『外套』のことはだれも聞いてはいけない、という雰囲気が出来上がっていた。ぼくらもロシアに行く機会があっても、あまり触れなかった。制作が始まって20年過ぎたあたりから、聞きづらい、聞いちゃいけないんじゃないかと。
本当に細かいからね、仕事が。こんな細かい仕事は、アシスタントでもやれって言われたら嫌がるような仕事だから。僕なんか大雑把だし。

6、7年ぐらい前に、ノルシュテインさんが腸の手術したんだよね。それまでは、いろんな重い荷物とかガツガツ持って動き回っていたんだけど、さすがに手術してからは普通になった。

そうなると、あ、ノルシュテインさん大丈夫かなってなるじゃない。『外套』もどうなるんだと。周りは絶対聞けないって雰囲気があったけど、きちんと話せるうちに聞いておかないと絶対駄目だってなって。

ノルシュテインさんの弟子も、自分と師匠の間では『外套』のことは聞いてはいけないという契約書を交わしているから、というような冗談も言うくらい。でも「俺は聞けないけれども、お前なら聞けるよ」と。

今回の映画制作のきっかけは非常にシンプル。ドイツのハンブルク日本映画祭に、僕が監督した映画『セシウムと少女』(2015年)が招待されたこと。ハンブルグまで行くんだったら、モスクワも近い。

せっかく行くんだったら、アニメーションが盛んなエストニアに寄ってプリート・パルンさんに会って、それからモスクワへも行こうと。『セシウムと少女』のカメラマン加藤雄大さんも一緒に行くんだから、カメラ回した方がいいし。ちょうど条件があった。

撮影は2016年の夏。ぼくとカメラマンの加藤さんと通訳の児島宏子さんの三人だけで、一週間で撮った。わざわざ来たんだから、ノルシュテインさんもしゃべらないといけない、と思わせるシチュエーションをつくった。

2000年に一度、モスクワに一週間泊まり込んで朝から晩までノルシュテインさんを撮影して、ドキュメンタリーをつくったことがあった。でも、その時はまとめることが出来なかった。
 
今回まとめることができたのは非常にシンプルな理由。これまではカメラを自分で回しながら演出もしていた。でも今回はプロのカメラマンを連れて行ったということ。加藤さんは黒澤明監督の撮影助手をしていた人。そして、編集もプロの川島文正さんにお願いした。
 
撮影自体は一週間でしたけど、編集するのに半年間くらいかかった。
とにかく編集が大変だった。撮影は一週間でも、編集には普通の劇映画をつくる三倍くらいの時間とお金がかかった。
 

加藤さんは、もう黒澤明監督の『椿三十郎』(1962年)から現場にいる人。それに、岡本さんについていたということもかなり影響しているのかなって思っている。岡本さんは、ある時期から撮影で三脚を使わない人になった。人間クレーン。それは、カメラにも人間の息づかいが必要なんだっていうこと。
加藤さんは、ノルシュテインさんがスケッチを書いている時、こんなところまでいいのかなっていうくらいカメラを近づけて手持ちで撮っていた。でもノルシュテインさんの仕事はぶれなかった。

ノルシュテインさんとサンクトペテルブルクへ行ったのは、『外套』の舞台だったから。かつてノルシュテインさんのお母さんがそこの病院で働いていたこともある。
モスクワからペテルブルクへは、昔は列車で八時間くらいかかった。でもいまは新幹線みたいな列車で四時間くらいで着くようになった。日帰りで行った。
ペテルブルクでは、あそこまでノルシュテインさんが丁寧に案内してくれるとは思っていなかった。
 

 

 
 
 

『外套』はできない

 
悪いけど、僕らは『外套』は出来ないと思っているわけ。実際、みんなそう思ってると思う。だっていまだに半分なのよ、30年経っても。よしんば出来るとしても、これからまだ10年はかかるって気がするのね。いままでの様子を見ていると。

日本人が資金出すって言っても、本人は「いらないよ」って言う。自分は人からサポートされるつもりはないって。自分の身体が動くうちは、自分が稼いだお金で作品はつくるんだって言っている。特に「プーチンからは金なんかもらいたくない」って。

自分の中では、完成をもう10年は待てないという気がある。あれだけのレベルの映像が半分ある。だからディテールを聞いていけば、もう構築はできる。ノルシュテインさんのパーソナルヒストリーもあるし。

ノルシュテイン・スタジオには何度も訪れていて、基本的に作業場のどこに何があるかまで知っている。
 
ノルシュテインさんは、気分次第で今日はこれでおしまい、って人だから。気にくわないと全然何も言わない。

もともとノルシュテインさんと付き合う時は、約束とかスケジュールとか決めても、どんどん変える人なのね。なので、それにどう対応するか、ということには慣れていた。

今回はワンイシュー。「『外套』はどうなっているのか」。その一点に絞って、引き出すために、いろんなところから球を投げた。
ノルシュテインさんには、今までの付き合いがあったから、ああいう無礼な質問も出来た。それに見事に切り返してくれたって、気がする。ターニャ(ノルシュテインスタジオのスタッフ)とも仲が良かったから、彼女も良くサポートしてくれたと思う。
 
 

 

 
 
 

 
 
 

ものづくりをする人たちの教科書に


作品をつくっている過程でさ、あっ、これはアニメーションをつくっている人だけではなく、ものをつくっている人、それから今後もの作りをする方向へ行きたい人にとってものすごい参考になる、教科書みたいなものになったって思った。ものをつくるってことは、こんなに真面目にやらないといけないんだって。

有名な監督がロシアには他にも沢山いるんだけど、ノルシュテインさんとは違う。ノルシュテインさんは、日本では暇な時間にずっと本読んでいる。チェーホフの日記とか。チェーホフが一番好きみたいだね。

長い付き合いの中で思うのは、なんかノルシュテインさんが、ロシア的だって思っているある部分が、どうも日本的なものとかなり重なるところがあって、だから日本人もさ、ノルシュテインさんの作品にちょっと日本的なんだけどロシア的なものを感じる。かなりダブっているところがお互いにあるって思う。

ノルシュテインさんは、俳人の山頭火が結構好きだよね。「蝿が止まった、パチン」とか、いいねって。ノルシュテインさんも勉強してるよね、というか好きだよね。芭蕉とか、山頭火とか、蕪村とかさ、一茶とか。
これは冗談とも思えなんだけど、ある時、本人に何で俳句が好きになったのかと聞いたら、「すき間がいっぱいあるから読みやすい」と言っていた。

前に連句アニメーション『冬の日』(2003年)のドキュメンタリーを作った。伊賀上野の蓑虫庵で、ノルシュテインさんと川本喜八郎さんのシーンを撮った。
その時、ノルシュテインさんが行ったことがないというので、ついでに奈良へ行ったことがある。

東大寺の二月堂っていうお堂に立ち寄った。でもノルシュテインさんは、すたすたってお堂は通り過ぎてしまって、裏側の壁の木に生えている苔をじーっと見て、こんな色を出せたらいいな、と言っていた。見るところが違うと思った。

奈良駅に着いたら、改札に京都博物館のレンブラント展のポスターが貼ってあって、ノルシュテインさんがいきなり「これを見に行こう」と。大仏とかいろいろあるのに。いや、いんだ、って。これを見に行こうと。
奈良には半日くらい滞在しただけですぐに京都へレンブラント展を見に行って、満足だったと。

ノルシュテインさんは、宮さん(宮崎駿監督)と似ている。ツボにはまると、ひと言投げるだけで、どんどん自分から話してくれる。
 
 
 

みんなにノルシュテインさんを知ってもらうために、ずっと編集者として出版をやってきたし、フェスティバルも開いてきた。講義のセッティングもしてきた。セッティングまでが裏方って大変だからさ。でもいざ講義が始まったしまうと、そこらへんで寝ていた。講義が終わったら、ご飯食べに行きましょう、とか。肝心のノルシュテインさんの話は聞いていなかった。勢いで話したり、通訳をしたりとかだった。

でも映画をつくるとなると、ノルシュテインさんのひと言ひと言を正確に把握しないといけない。これまで大雑把に理解していたことを、今回映画をつくる過程で、一つ一つ吟味して、ぼく自体が勉強になった。

こんなにとんでもない叔父さんなんだ、ぼくが思っていた以上にとんでもない人なんだと。芸術家って、芸術作品をつくろうと思うんだけど、美術監督が言っていたように、彼は「芸術の到達点」をつくろうとしている。目がくらくらとした。

芸術家として、ノルシュテインさんのような存在は世界に十人はいないと思う。たまたまそういう人と知り合えて、付き合えていることは幸福だよね。

人生は捨てたもんじゃない。作品をつくるためにさ、すべての自分の人生を賭けるわけじゃない。それくらい、ものをつくるってことは深くて、でも、楽しそうじゃない。
 
実際、ぼくらが一緒に食卓で飯を食う時って楽しい。どんなに忙しくても、食卓ではまず笑いながら飯を食うんだっていうことを含めてさ。
ということは、ものをつくるってことは、楽しい人生を送るってこと。でもそのかわり、ものをつくるってことは結構大変。でも大変だから楽しいんだ、っていうことが、画面からちょっとでも出ていたらと思う。
 
(聞き手・岡博大)
 
 

 
 

 
才谷遼(さいたに・りょう )
1952年大分市生まれ。日本大学芸術学部映画学科在学中より岡本喜八監督に師事。1982年、株式会社ふーじょんぷろだくと設立。まんがアニメ専門誌「COMIC BOX」を創刊。1998年、複合施設ラピュタビル(映画館・小劇場・レストラン)をオープン。映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」では邦画旧作上映に注力するとともに、国内外の短篇アニメーションを集めた映画祭を開催。2006年、「アートアニメーションのちいさな学校」を開校、事務局長を務める。
 

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